マインド

認識の再定義

前回は、自分は願望を実現できると信じるということが結構難しいという話をしました。

絶対的な神という存在を持たない私たち日本人の多くは、自分を信じるほかありません。

実現してもいない願望を自分が叶えることができると信じられるようになるにはどうしたらよいか?

今回は、この問いに対する一つの考え方を提示したいと思います。

自分は願望を実現できると信じることができるようになるには?

自分を信じるための手法というのはいくつかあります。

目標を紙に書いて毎日目に付くところに貼ったり、アフォメーションで自分に言い聞かせるなど、自己啓発関連の書籍なんかでもよく目にしますよね。

これらは一種の自己暗示です。

何度も何度も繰り返して、良いイメージを脳に刷り込ませて、感覚的にセルフイメージを高めるという右脳に働きかける手法です。

人は結局、物事をイメージで捉えてるので、直接、右脳にイメージを刷り込むことができれば、理論的には、マインドは自在にコントロールできるようになると言えます。
上手くやることができれば、大きな成果を得ることも可能でしょうが、自己暗示というのは、かかりやすい人、かかりにくい人という個人差もあるわけです。

自己暗示って、盲目的に信じられる人には向いていますが、

こんなことやって、効果あんの?
無理やり、自分にそう思い込ませようとしてるだけじゃない?
結局、自分にウソついてるってことやん?

みたいなことが、脳裏に浮かんでくると、なかなか難しかったりします。

結局、今度は、この手法を信じられるか?
という問題が出てくることになるわけですね。

しかし、その手法自体を信じることができなかったとしてもいいんです。

すでにその道で成功している人が、

「私は、この手法でこんなに成功しましたー!」

と言っているのを聞いて、

「おぉぉ!この手法を実践すれば、あんな成功者になれるのかー!!」

と素直に信じることができれば、OKなわけです。

しかし、

「そんなの、この手法を実践=成功 なんて言えないよねー。成功できた要因なんて他にも色々あるんだろうし。僕がやっても必ず再現できるなんてどうして言えるの?」

とか思っちゃうとやっぱ難しいんですね。。。

では、こういう疑い深い人が自分を信じることができるようになるにはどうすればよいでしょうか?

疑い深い人というのは、理性を重視する人とも言えます。

理性を重視する人というのは、

「そんな根拠のないこと、信じられるか!」
「俺を納得させ得る根拠を提示しろ!!」

と言います。

インターネットが普及して以来、情報が簡単に手に入るようになり、論理的に思考する材料が整った現代において、
課題を解決するには直感的に判断するより、論理的に考えて判断する方がうまいこといく考える人が増えたように思います。

よって、自分を信じるということにおいても、論理的に納得できる思考によって、
「本当にそう思える」ことがより重要になってきたということなんですね。

要するに、

自分が願望を実現できると言える明確な根拠が欲しい

と。

しかしですよ、

願望というのは、実現していない現実なのであって、実現することが難しい現実だから願望なわけです。

あなたはこれまで願望を実現するために色々チャレンジしてきた、
しかし、どれもこれも失敗ばかり、
何をやってもうまく行かず、
あー俺ってダメだなーという思いが日に日に増していく中で、
願望を持つこと自体が間違いだったのかなー

と思うようになってきてる自分

そんな自分のどこに、自分は願望を実現できるという根拠を見出すことができるんでしょうか?

その根拠とは、私たちの心の中にある認識(物事の捉え方)を変えること

つまり、認識の再定義

によって見出すことができると僕は考えています。

認識の再定義とは?

ある事実に対する捉え方は一つなんてことは、絶対にありませんよね?
見る立場や、視点、その時の状況、タイミングによって、いくとおりもの捉え方があるはずです。

例えば、戦時下の状況というのを想像してみてください。

戦時下における兵士や将校は、自身の国を守るため自らの命をかけて戦います。
こういった状況下では、相手の兵士や将校を倒せば、倒しただけ、戦果をあげたと賞賛されるわけです。

ある将校が、相手の大将を倒したという事実があったとします。

その将校は、戦いに勝利し、自国に凱旋すれば、多くの国民から英雄として称され、この事実を誇らしげに捉える事でしょう。

一方で、倒されたその大将にも家族がいたとします。

その倒された大将の子供からすれば、相手の国で英雄と称されているその将校は誰よりも憎い存在であり、この事実を人生最悪の事として捉えることとなります。

また、その戦場を指揮している指揮官からすると、その事実によって戦局が有利に動いた、不利に動いたと、単なる盤上の駒としてしか捉えてません。

さらには、時代が変われば、その事実は、受験に出るからと暗記する対象として捉えられることになるかもしれません。

このように、起こったことは事実として一つかもしれませんが、その事実に対する捉え方はいくとおりもあり、人はそのいくとおりもある捉え方の一つの見方で認識しているに過ぎないということです。

このようなことは、実はあなた自身の過去の記憶においても同様であると言えます。

例えば、
あなたは過去に事業を立ち上げようと、資金を投資し、銀行から融資も受けた。
何とか成功させようと、多大な労力と時間を費やし、必死で頑張った。
しかし、事業はうまくゆかず、結果的に諦めてしまい、失敗に終わった。
後には借金だけが残り返済するのに苦労した。

という事実があったとします。

この事実に対して、あなたが

こんなことなら、やるんじゃなかった。
多大な労力と時間、お金を無駄にした。

と認識したならば、このことはあなたの恐れの記憶として存在し、あなたが新しいことにチャレンジしたいと思った時に、必ずブレーキをかけることになります。

しかし、捉え方は一つではないのです。

失敗から得られる経験とは貴重なものです。
何が悪かったのかを身をもって体験できたおかげで、次は同じ過ちを冒すことなく、選択をすることができるでしょう。
また、失敗の中には小さな成功もあったはずで、それは経験済みの事として、次回に自信をもって活かすことができます。
その事業に真剣に取り組んだならば、それだけ失敗した時の心理的ダメージは大きいですが、逆に考えればそれだけ得られた経験値も大きいと言えます。

何もしなければ失敗することはなかったかもしれないが、何もせず何も得られないより良かった。
多大な労力と時間、お金を費やしたが、やって得られた経験をちゃんと考えると、無駄ではなかった。

と認識を再定義することも可能なわけです。

ある事実について、あなたの中でこのように負のイメージから正のイメージに認識の再定義ができれば、あなたは理性で納得し、本当の意味で自信を持って次の一歩を踏み出すことができるはずです。

ある事実について、嫌だなとか、辛い、苦しいといった負のイメージを最初に持ったなら、
そこで一度その事実について自分に問いを投げかけてみほしいのです。

この事実は、他の見方はできないか?
この事実によって、得たもの、成長できたこと、今後に活かせそうなことはないか?

と。

どのような認識を選択するかは、あなた次第、あなたはあなた自身の認識を選択することができる

ということを知っておくということが大事だということです。

しかし、こんなの単なる自己満じゃない?
事実をどう自分が認識しようが、事実は事実として変わらないんだから意味なくない?

と、お思いですか?

では、次に人の認識とこの世界との関係について考えてみたいと思います。

人の認識とこの世界との関係

あなたが目で見て、耳で聞いて、手で触って受け取る情報は、すべて神経を通って脳に伝わります。

これら脳に入ってきた情報に対して、あなたの意識はそのことを認識し、脳内で思考し、感情が揺さぶられるわけです。

そして、今度は逆にあなたはあなたの体を使って、言葉や行動、しぐさや表情といった何らかのアウトプットを、この世界に対して発します。

世界に対して発せられたあなたからの言葉や行動は、周囲に広がりこの世界に対して様々な影響を与えます。

あなたが世界に対して発した影響は、その反応として直接的、または間接的にあなたの元に必ず返ってきます。

インプット ⇒ 認識 ⇒ 思考・感情 ⇒ アウトプット ⇒ 反応

私たちは、この作業を延々と続けている生物だとみることができます。
もちろん、これも数あるあなたと世界という関係を、ある抽象度で捉えた一つの見方です。

ここで、願望の実現とは、世界からあなたの望む反応を受け取るということになります。

そして、世界からどういう反応を受け取るかは、あなたのアウトプット次第ということになるわけですが、
ここがなかなか思った通りの反応が返ってこないから、人の悩みは尽きないわけです。

あの大学に入りたいので、頑張って勉強したけど受からなかった。
好きなあの子に告白したけど、ふられた。
良かれと思ってしたことが、仇となって返ってきた。
などなど。。

人は皆、世界から自分の望む反応を得るにはどうしたらよいかを思考し行動します。
どのような反応が返ってくるかある程度予測可能なことはありますが、予測不可能なことのほうが圧倒的に多いわけです。

経験や知識を身に付けることで、予測可能な範囲を広げることはできますし、その努力は必要ですが、
どう頑張ってもすべてを思考し、予測して行動する事なんて不可能です。

ということは、あなたが望まない反応を世界から受け取ることは避けて通れないということです。

であるならば、、、

あなたが生きていく上で、あなたは、あなたの望まない多くの事実を世界から受け取ることになるということを前提にすべきです。

そして、思考や感情というのは、あなたの認識(価値観や考え方)をベースに、インプットに対してパターン化された反応をします。
人は、思考や感情を元に行動するわけですから、世界から受け取る反応とは、元を言えばあなたの認識に依存すると言うことになります。

世界からどのような反応を受け取るかをあなたがコントロールできる範囲は極々限られていますが、あなたが自身の認識を変えることは、やろうと思えば、今すぐにでも出来きることですよね?

そう考えると、この世界から受け取る事実をあなたがどのように認識するかということがとても大事だということが理解できるのではないでしょうか?

ちなみに、この世界に対して、コントロールできないことを、何とか自分の意のままにしたいと思うこと

それが執着です。

執着はいけませんよー。
執着すると苦しいですよー。
と、お釈迦様は言っていますね。

自分が思うように、直接この世界をコントロールすることは難しく、コントロールできないことで苦しむよりも
自分の認識(在り方)を変えて、行動すれば、あなたの願望は叶いますよ。
というふうに、僕は解釈しています。

どう認識するかなんて単なる自己満、思い込みに過ぎない

というのは、確かにその通りです。

しかし、この世界をどのように認識しているかなんて、誰一人全く同じなんてことはなくて、ある意味、世界中の全員が自分の思い込みで認識しているとも言えます。

例えば、人は、他人と意思の疎通を図るために言葉を使います。

例えば、「母親」という単語。

この単語をあなたはどのようなものとして認識しているか?

女性、自分を生んでくれた人

など、ある程度共通化された部分はあるものの、

細部を見れば、その認識はいろいろ違っているものです。

やさしい
あたたかい

というイメージを持つ人もいれば、

怖い
冷たい

などのイメージを持つ人もいるわけです。

あなたが会話で「母親」という言葉を発した時、あなたが認識している「母親」のイメージが相手に伝わっているわけではありません。
聞き手は、聞き手が認識する「母親」というもののイメージを思い浮かべて話を聞いているので、会話がかみ合わないということが起きるのです。

このように、

この世界は、それぞれの人が、それぞれで認識している

そして、

自分の認識が、思考、感情に影響し、行動することで世界から反応を受け取る

と考えた場合、

事実をどう自分が認識しようが、事実は事実として変わらないんだから意味なくない?

というのは、はたして本当にそうでしょうか?

事実は事実として変わらないというのは、確かにそうでしょう。

しかし、
この世界で起こった事実以上に、その事実をどのように私たちが認識するかのほうが、実は意味あることで、より重要な事なのではないか
と、僕は思うのです。

そのイメージは根拠足り得る真実です

ある事実に対して、あなたは深く思考し、
負のイメージ
正のイメージ
の洗い出しに成功したなら、

あとは、あなたはその正のイメージをどんどん心の中で膨らませていけばよいのです。

あなたが洗い出したその正のイメージは、その事実に対して、あなたが心からそうだと思ったことであり、ウソでもまがいものでもない、紛れもなく真実です。

あなたは、その真実を根拠に自分は願望を実現できると心から信じることができるはずです。

ある事実に対して、あなたが抱いていた負のイメージ、正のイメージとは、あなたにとってどちらも真実です。

これまでは、単にあなたは、負のイメージにばかりフォーカスを当てていただけだったということです。

負のイメージにフォーカスを当てようと、正のイメージにフォーカスを当てようと、本来どっちでも構わないはずなのに、人は、負のイメージにばかり意識を向けてしまう習性があるのです。

事実に対しての認識は選択可能であると認識すること
正のイメージに意識を向けるよう意識すること

この2つを常に心掛けていれば、自分に自信を持って生きていくことは可能になるということなんですね。

要点だけをピックアップして、書き出すと、
「まー、そうだよね。」
といった感じになっちゃいますが、知識として知ったというレベルでは実際のところあまり意味はないのです。
今回は、そのメカニズムを紐解くことで、こういったことを意識して心掛けてもらうきっかけになれたら幸いと思います。
すべての学びについて言えることですが、実際に体験してみて、その効果を実感したときに人は、本当に理解できたといえるものなので。