あなたの周りに「この人、自己中だなー」と思うような人はいませんか?
自己中と思われてる人は、基本的に周りの人から嫌われている人が多いと思います。
しかし、自己中な人というのは、自分に正直な行動をとってる人とも言えますよね?
「この人、自己中だなー」と思う反面、心のどこかで、羨ましいと思う気持ちもあるのではないでしょうか?
今回は、自己中な人の何がいけないのかを考えたうえで、「自己を中心に据えて生きよう」ということを提案したいと思います。
自己中と思われる人の何がいけないのか?
自己中の人がとる行動を目にした時、不快に思いますし、あまり好きにはなれませんよね。
自己中な人に対しては、こちらも何かしてあげようとか、応援してあげようという気持ちも持てないと思います。
しかし、人一倍、自分が大好きな人であるにもかかわらず、
自分のとった行動のせいで嫌われ
他人から協力を得られない
結果、自分の欲求を満たせない
というかわいそうな人でもあります。
自己中な人と思われる人とそうでない人の違いは何なのか?
自己中な人の思考と嫌われてしまう行動について、考えてみたいと思います。
自己中な人の特徴について、根本的な想いとその想いの結果、至る思考、行動について考えると、このようになるのではないでしょうか?
根本的な想い | 思考、行動 |
---|---|
自分の欲求を満たしたい | 他人のことはどうでもよい |
自分が大好き | 他人が自分より優れているのは許せない 他人の幸せを妬む |
自分は正しい | 他人の話を聞かない 自分の話ばかり、自慢話ばかりする |
こう見ると根本的な想いは、誰でも持ってるものだし、それ自体悪いわけではありません。
しかし、その想いからとる思考や行動に問題があるのがわかると思います。
視点の変換で思考・行動を変える
このような想いをベースとして、
根本的な想い | 思考、行動 |
---|---|
自分の欲求を満たしたい | 願望実現のためのモチベーションとする |
自分が大好き | 願望実現のための良いセルフイメージを持っている 自分に自信がある |
自分は正しい | 自身の中で絶対的な価値観、信念を持っている |
という思考や行動に変換することができれば、これはむしろ、成功者となるために必要な素養とも言えます。
根本的な想いは同じなのに、その結果至る思考や行動によって、自己中と言われる人になるか成功者になるか変わってくるという事です。
この思考、行動の違いはどこから出てくるのかというと、
このような自己中的な想いを短期的視点で持ってるのか、長期的視点で持ってるのかという視点の違いということができます。
短期的視点でいると、今すぐ結果を手にしたいという思いから
例えば、
- 人にどう思われようと、私は今タバコを吸いたいのだから禁煙スペースでも吸う。
- 自分より優れた人や目立ってる人は、攻撃して潰して、相対的に自分が優れていると優越感を感じたい。
- 人の意見を聞き入れることは、負けを意味するので、理屈をこねて自身の正当性を主張する。
といったような行動をとってしまい、結果、嫌われてしまいます。
では、長期的視点でいるとはどういうことか?
それは、
自分が満たしたいより大きな欲求は何なのかをよく考え、自身の目標として設定する
ということです。
この目標は他人のためではなく、あくまで自分を中心として「自分が満たしたいより大きな欲求」である必要があります。
そして、これはすぐに達成できそうな欲求ではなく、まさに自身の人生をかけて実現したい欲求である必要があります。
このような欲求を目標設定している人は、その目標達成のために自身がどうあるべきか、どう行動すべきかを考えるようになります。
些細なことに拘る必要がないため、判断、行動の基準が変わります。
自身のより大きな目標を達成するためには、先ほどの例えで言えば、以下のように行動が変わるのではないでしょうか?
- 禁煙スペースにおいて、タバコを吸いたいと思う欲求とそこで吸ってしまうことによる自身のイメージの損傷を考えると、自身の目標達成に対して、タバコを吸うメリットより、自身のイメージ損傷というデメリットの方が大きい
- 自分より優れた人や目立ってる人を攻撃して潰して、一時的に優越感を感じたとしても、自身の目標達成に何の寄与もしない。
むしろ、その人から多くを学び、良い関係を築くことで得られるメリットのほうが大きい。 - 人の意見を聞き入れることが、一時的に悔しいと思ったとしても、それは些細な事。
よりよい意見は聞き入れて、自身の知識としたほうがメリットが大きい。
自身の正当性を主張する必要などなく、自身の行動で正当性を認めてもらえばよい。
このような思考は打算的と思われるかもしれません。
結局、損得勘定で動くのかと・・・
しかし、よく考えてみてください。
人が行動をとるには、とるべき根拠が必要なのです。
そして、その根拠とは、突き詰めれば、自我の欲求に辿り着きます。
その為、自我の欲求に反する思考や行動というのは、基本的には不自然なのです。
自己犠牲は不自然
「自己を犠牲にして、他人のために尽くす」
というのは、聞こえはよいですが、いろいろ問題を孕んでる可能性があります。
なぜなら、人はほとんどの場合、見返りを求めてしまうものだからです。
いや、私は見返りなんか求めない。
って人は、
例えば、自分を犠牲にして、人のためを思って、精一杯尽くしたのに、感謝の言葉一つもらえなかったらどう思うでしょうか?
もしくは、あなたの努力に気付いてももらえず、逆にあなたを蔑むような態度をとられた時どう思うでしょうか?
見返りとは何も金銭的なものだけではありません。
自分がなんらかの犠牲を払っていて、それが大きければ大きいほど、感謝の気持ちを見返りとして求めてしまっていることはあるわけです。
そして、感謝の言葉の一つもない場合、あの人は感謝の心がないと相手を批判し、憎悪を向けてしまうことになるのです。
人間関係の縺れは、このようなことが起因していることもよくあるわけです。
長期的視点で自身の欲求を満たすこと考える
長期的視点でいると、ある事象についての自身の捉え方、意味づけが変わります。
自分は犠牲を払っている
相手の為を思ってやっている
という認識でやっていると、見返りを求めてしまう。
これは人が自我を纏う存在である以上、仕方のないことだと思います。
そうではなくて、同じことをやるにしても
自身の良い経験になる
相手と良好な関係を築くためにやる
という捉え方であれば、見返りを求める必要はありませんよね?
自分のためにやったことなのだから。
もっと言えば、
人のためにやっている自分を人にアピールするためにやる
という捉え方でもいいと思うんです。
そういう捉え方で行動していれば、仮に何の感謝の言葉も貰えなかったとしても、基本的には自分のためにやったことなので、相手を憎悪するというところまではいきません。
多少打算的であってもよくないですか?
それが、人のためになり、自分のためになるのなら。
自分を幸せにできない人が、他人を幸せになんてできるはずがありません。
自身が充分に満たされて、余裕が出てきたときには、純粋に相手の事だけを思ってやれる範囲が増えてくると思います。
自分がそういうステージに到達するまでは、無理して完璧を求める必要なんてありません。
通常とる思考や行動は、自身の大きな目標に対してどうなのかを判断の基準として行動すればよいのです。
大きな目標を達成しようと思ったら、自分一人の力だけでは難しいということに気付きます。
協力者を得ようと思ったら、協力者の立場になって考えることも必要だし、関係者すべての幸せを考えて行動するという事が必要だとわかります。
あくまで、自分を中心に据えて、大きな願望や強い信念を表現する。
それに共感してくれた他人を巻き込んで共に幸せを追求できるよう考え行動し、願望実現を目指す。
このような思考で、行動することができれば、願望はいつか現実のものとなるでしょう。
自我の本質とは、自身の欲求を満たすことです。
まずは、そのことをしっかり認識し、受け入れるべきです。
一方で、人には理性があります。
理性によって、自身の欲求を抑え込むということもできますが、それもまた短期的な視点での思考、行動なのかなと僕は思います。
自身のより大きな願望を実現するために、とるべき行動は何かということを理性で考えることで、自身の欲求を抑え込んでいるという認識はなくなり、ストレスなく生きることができるのではないでしょうか?
自己中と言われて嫌われているという自覚のある人は、短期的な視点で自分の欲求を満たそうとしていないか考えてみてください。
そんな小さな欲求に固執しても得られる満足はたいしたものではありません。
それより長期的視点にたって、大きな目標持つようにすれば、人生かわるかもしれませんよ。